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終戦29年後、小野田寛郎さんが日本へ帰還したのは1974年3月12日でした!

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終戦29年後、小野田寛郎さんが日本へ帰還したのは1974年3月12日でした!
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しじみにんにく

戦争が続いていると信じ、フィリピン・ルバング島で30年間任務を続けた元陸軍少尉小野田 寛朗(おのだ ひろお)さんをご存知ですか。

情報将校として太平洋戦争に従軍し、フィリピン・ルバング島でゲリラ戦を展開、第二次世界大戦終結から29年の時を経た昭和49年(1974年)3月12日日本へ帰還を果たされた方です。

小野田 寛郎さん(大正11年(1922年)3月19日生まれ、 平成26年(2014年)1月16日肺炎で死去)の足跡をたどってみましょう。

フィリピン・ルバング島で発見されるまでの経緯

小野田さんは1942年に和歌山歩兵第61連隊に入隊後、44年にルバング島に派遣され、情報員の任務を与えらます。

しかし、終戦を知らずジャングルに潜伏。
51年に帰国した元日本兵の証言からその存在が判明したのですが、作戦解除命令がないことを理由に部下とともに山中にとどまっていました。
そして1974年3月、捜しにきた元上官らの任務解除命令を受け、山を下りて救出され帰国されました。

1950年6月:
赤津勇一陸軍一等兵が、ジャングル内で意識不明のところをアメリカ軍に発見されたことで、小野田さんら3人の残留日本兵が存在することが判明。

1951年:
日本へ帰国した赤津氏は、政府に「小野田さん」「島田さん」「小塚さん」がまだフィリピンで戦っていることを伝える。
しかし、当時フィリピンの情勢が不安定な為、救出活動が行える状況になかった。

1954年:
偶然、フィリピン山岳部隊が日本兵と遭遇し銃撃戦で島田庄一元伍長が死亡。これによりフィリピン政府は、残留兵捜索隊の入国を許可。
しかし、日本政府は捜索を開始したものの見つけることができず、日本・フィリピンの両国は、2人が戦死したと発表。

1972年:小野田さんと最後まで一緒に戦っていた小塚さんが、フィリピン警察との銃撃戦で死亡。

2人は戦死しておらず、生きていたのです!

日本政府の捜索は、いまだ戦争が続いていると思っている小野田さんには、アメリカ軍からの罠だとしか思われず、ビラを見ようが、声が聞こえようが、断固として出ていかなかったのです。

1973年5月:
捜索打ち切り

1974年2月:
鈴木紀夫さん、個人的に1972年からフィリピン・ルバング島で小野田さんの捜索活動をしていた人物。
彼がジャングル内で小野田さんに発見され、背後から銃を突きつけ、「おい!」と声をかけ、打ち殺そうとしたとき、

「僕、日本人です!僕、日本人です!」

鈴木さんは両手をあげて必死に呼びかけ、当時、毛の靴下にサンダル履きという原住民にはない珍妙なスタイルであったことが功を制し、小野田さんに本物の日本人だと信じてもらうことに成功。
鈴木さんと小野田さんは、別れ際に一枚の写真を撮って別れる。
ここで撮影した写真が確かな証拠となり、小野田さん帰国への大きな一歩とったのです。

1974年:
鈴木さんの話で、小野田さんが上官の命令下達を待っていることが伝えられると、戦時中の上官、谷口義美さんが、フィリピン・ルバング島に行き、小野田さんに命令の取り下げを行いました。
命令下達がなされると、小野田さんは任務終了に応じ、日本へ無事帰国されたのです。

そして、母との再会

「寛朗、よう生きて帰ってきてくれた。長い間ごくろうさまでございました。」(母:タマエ)


小野田さんの晩年

小野田さんは、帰国後に町枝さんと結婚しますが、戦前と大きく価値観が変貌した日本社会に馴染めなかったのか、帰国半年後に、次兄のいるブラジルに移住して小野田牧場を経営する事を決意します。
そして、10年を経て牧場経営を成功させます。

その後、『祖国のため健全な日本人を育成したい』と、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰し、講演会や野営等を行いました。

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